2008/10/01
発信者:
ゲームの規則
要約文の掲載です。さて、トリエンナーレ2008の本質が見えましたか?
世界各地で行われている展覧会の全体像を要約することは不可能に近い。ただし、何かがそこで一度だけ起こるという独創性を銘打つことで新たな意義が生じることを強調している。
ビエンナーレに昔日の面影はない、あまりに数が増えすぎて誰もまともにビエンナーレを見ようとはしないからである。また、同じ作品があちこち巡回することも珍しくないので、ある特定の場所に足を運び、その場に居合わせる必要もない。
この「ゲームの規則」で述べることとは、人々を呼び寄せる仕掛け・引き金のことである。しかし、従来のオープニングのように人びとが集まっても社交の場と化し、展覧会の内容とは無縁なものも多い。
横浜トリエンナーレのオープニング・イベントとして計画された三日間の催しは、そのような意味合いでの「社交の催事」ではない。この三日間は美術作品とじかに接し、それを体験することにほかならず、どうしてもその場に居合わせる必要性をもつ。
パフォーマンスや一定の時間が過ぎると消えてしまう作品の場合、非常に多くの人々がそれを見損なう結果に陥りがちである。このオープニング・イベントが重視されるのはそのためであり、展覧会の会期全体に分散させないことにした理由も、分散すれば来場者全体のうち、ごく少数の作品にしか接することができない事態が予想されるからである。
これはアーティストたちが繰り広げるアート活動にとっても、欠くことのできない手法である。アーティストの多くが作品に時間の要素をとりいれて、鑑賞者にその場に「居合わせる」ことを求めるばかりでなく、美術の世界の構造について従来とは異なる作品の感じとり方をし、さらには評定することまで要求している。さらに、ある決まった時間と場所に人々が集い、ともになにかを作り上げるという、集団としての人間のあり方が重視されている。本展では、美術界のシステムがアーティストの役割を完全に横取りしてしまった状況下で、これまでとは違う美術作品の創り方、扱い方をどう確立するかを考慮した。それは、その瞬間が成立する場を提供することが非常に重要ということである。
物事はいかなる場合でも文化、言語、科学技術等の媒介というフィルターがかかって理解される。世界でいま起こりつつある事象の重要性はここにある。現在は歴史的に見ても「架空」と「現実」の境界がぼやけた時代と言うことができ、予知不能な出来事が、日々の正常な暮らしの一部となった。これはつまり、わたしたちが現代を生きていると言うとき、流動的だが断片化された生活を営んでいると認めることにほかならない。そして、物事は活動の過程から発展してくるものであり、手段、方法、場の副産物として創り出される。大切な点は、その良し悪しを判断しないことであり、人々の関心も、他者同士が共存し、自らの解釈で納得できる空間を創ることに傾いている。このことは、美術産業や文化産業全般にも基本的なイデオロギー上の疑問を提起している。
美術作品の制作の予知不能性には偶然の作用が内在する。「タイム・クレバス」に参加するアーティストの多くの制作法にも組みこまれており、その意図はそうした突発性、予知不能性、あるいは行為の生じる瞬間を捉えることにある。
スペインの詩人・戯曲家フェデリコ・ガルシア・ロルカがパフォーマンスのなかに「ドゥエンデ (神がかり) 」を見いだし、「ドゥエンデは霊感の瞬間的な噴出、真に生命あるものの紅潮。演者がある瞬間に創りだす全てのもの」と言った。ロルカの研究家クリストファー・マウラーは「ミューズ (詩神) や天使にも優る、ドゥエンデは演者ばかりでなく観客でもあり、意識的な努力をほとんどすることなく、芸術が自然発生的に理解される条件を調える」と指摘した。つまり、詩的感興に満ちた瞬間が、いわゆる美術作品と鑑賞者の分裂を解消するのである。
この「詩」は美術と対比する重要な指標であり、美術作品は高額になるのに、詩は対価を必要としないことや、詩人には制作費を気にすることも詩を売らなければならないという心理的圧迫がないことなど、美術作品の制作と比べて対照的である。
一方、デイヴィッド・ハモンズはジャズ音楽を手本に、地元よりも国際的な舞台での演奏を優先する人々がいることや、ハーレムに腰を据えたままでも、ジャズ演奏家として世界を相手に活動できる理由を問いかけている。つまり、肝心なのは音楽の世界では別の方法も可能だという点である。
そこで、わたしたちが企画するのは、詩の朗読やジャズ演奏が行われても、なぜパフォーマンス・フェスティヴァルではないのか。そして、どういう形式であれば展覧会として認められ、しかも従来のビエンナーレとは異なる展覧会になりうるかということである。
最近の大規模な展覧会では、モデルとしての美術学校に関心が高まっている。世界中の文化産業が手当たり次第に商品化を狙って貪欲になっており、ビエンナーレも観光と都市のブランド性、そして大量動員の望める派手な見世物とあまりに深く結びついてしまった今、それに替わるモデルが求められていた。美術界ではいまだに見せ方、展示法が幅を利かせているのに対して、美術学校はそれよりもパフォーマンス、そして物作りに高い価値を認めている。パフォーマンスを美術の機能を拡大する手段と見れば、美術の意義はそれだけ深まるとロバート・フィリウは主張する。「教えること、学ぶことがパフォーミング・アートになりうるならば、アーティストはこの移行過程に組み込まれることになり、参加すること、予感することが美術になりうるだろう。(略)そして、知性の体系の改良が済みさえすれば、世界の新たな秩序を予感できるにちがいない」
「タイム・クレバス」の重要な先駆けに、ハンス・ウルリッヒ・オブリストとフィリッペ・パッレーノが企画・構成した2007年の「Il Tempo Del Postino (郵便配達夫の時間) 」展がある。そこでは、すべのアーティストに時間があたえられたが、場所は与えられなかった。そしてビデオを使わないことが条件とされた。作品は時間による規約との関わりが、たいへん深い。このことは、横浜トリエンナーレに参加するアーティストの多くにもあてはまる。作品の多くは 展覧会の会期中という時間の枠組みの中にのみ存在して、その後はかならずしも画廊に落ち着き先をみつけるとはかぎらない。考え方によっては、わたしたちは「特定の場所で行われる制作」よりも、「特定の場所で行われる破壊」について語っているということができ、「わたしたちが紹介しているのは美術市場で名の通ったアーティストではない」というなぞかけ表現を時間という枠組みを決めることによって、解決する興味深い方法であるかもしれない。これは現実と並んで存在するもうひとつの現実を設定したと言えなくもない。
画廊のシステムに入ることのできない作品は自動的にすべて良質であるとは誰も言いはしない。しかし、市場の外にあるということに関しては、単純な考えが実に多く、余白に注視したり、作品の否定に基づいたアプローチ (ドクメンタ12はその典型) は必ずしも興味深い作品を見分ける基準にはなりえない。アーティストが何を否定するかよりも、何を明言しているかについて考える方がおそらくよほど興味深い。美術市場に関心を抱くアーティストの数は多く、その一方には市場とはまったく無関係なアーティストもいる。だが、これは選定基準にはなりえない。今回の展覧会で明確に述べられていることのひとつは、資本の信じられないような変身過程にほかならない。資本は発展し、あるいは消え失せるためのより柔軟な方法を常に見いだすということである。つまり個人がどのような経路を選んでも、大勢に影響はないということで、資本が国際化し、流動化した今日では、個人がどのようにして空間を見いだし、創りだし、あるいは開放するかについても大きな変化が生じ、行動を可能にする資源をどこに求めるかはじつは問題ではなく、それよりも当人がどうありたいか、あるいは何をしたいかに左右される部分が大きいということである。この事実、そして美術が随伴する特殊なコミュニケーションの形態との関係を目の当たりにするとき、わたしたちは今までとは異なる種類の美術に遭遇する。それは人生そのものが制作行為になれば、なにかこれまでとはまったく違うことが起こるということで、人生が芸術に変化しようとする瞬間とのさりげない出会いがそこにあり、芸術はこうして日々の暮らしの一部に回帰する。
わたしたちの住むこの日々の暮らしこそ、つねに先をめざしつつも、留まるべき世界なのである。どんな時も社会は見世物に変貌しており、日々の暮らしという「サイレント・シアター」のアーティストたちは (見えない場所でも) パフォーマンスを行ってきた。
「タイム・クレバス」展に参加している若手アーティストたちに目を向けると、時間の経過の中で成立する作品の大半が、かつては「アンダーグウランド」や「サイドウェイズ」と呼ばれたもの、あるいは視覚芸術の主流から外れて再結合されたものであることに気づかされる。それは大変興味ある新種の批判であり、明言されていたものがくつがえることである。彼らにとって、ネットワークによる作業と仲間との共同作業とは独立した構造として成立し、平行して活動を続けることが可能である。それは、作品を配信する新しいメディアが従来とは異なる「オフ (傍流) 」やサブカルチャーを可能にするということからで、そうなれば社会的な活動がそのまま作品制作になりうる。ここで興味深いのは出会いが時間の枠組みによって定められる点、社会的な相互作用が作品とそうでないものとを識別する点である。
この「ゲームの規則」で試みたのは、パフォーマンスが一定の時間の経過の中に存在し、しかもなにかしらの痕跡を残すという条件をつけたことである。つまり、展覧会のその場に留まるとか何らかの関係性を持つことで、より安定した状態で存在することが同様に重要であるとした。わたしたちはこうした特別な規則が、新しい種類の作品を生み出す引き金となるように希望する。ただ、形式上の問題として、創作行為のなかには、具体的な物として目に見えるかたちの結果を生じないものもあること、行為の終わりに形のあるものができるとは限らないこと、そして実際、それは当初からの目的ではなかったことが挙げられる。そこでわたしたちはアーティストたちを招き、鑑賞者が横浜トリエンナーレの会場にいる三日の期間のみ体験できるという時間の枠組みのなかでパフォーマンスをするように求めるだけではない。アーティストたちには空間も構成してもらうことにした。
たとえばケリス・ウィン・エヴァンズが「高精度指向性スピーカー」が設置されるパフォーマンス空間は、鑑賞者にとってもつねに変化して二度として同じ状態にないという意味で特殊な環境を形成するのがその例である。
パフォーマンスとその記録との間の緊張関係のなかで大きな意味をもつのが、パフォーマンスに関わるオブジェ、あるいは「遂行対象」(performative objects)である。わたしたちはアーティストに記録を展示することは避けるよう、あえてお願いした。記録は実際の行為にさかのぼりながら、同時に歴史的な事実に触れる面をもつ。わたしたちの試みにより近づいているのは、たとえばジョナサン・ミースあるいはジョン・ボックの作品で、ここでは物が制作される過程が物の一部となっており、それが実際の結果と同等の重要性を備えている。つまりより同時平行の制作行為であり、アーティストが行う全工程作業の一部でもある。どれから始めるということもないし、残されたオブジェや小道具でもなければ、映画や写真に記録されたパフォーマンスでもない。それは同時に起きたり、同等の関連性をもつ行為として突然行われる。
それはまたわたしたちを動くオブジェあるいは遂行対象に連れ戻してくれる。だが、遂行対象はパラドックスなのかもしれない。そこで、この問題に対する解決法の引き金となる構造として二部構成の展覧会、あるいは二連式の展覧会には興味深い緊張状態が生じることに注目している。
先例や主な参考事例は展覧会のなかでは、アーカイヴや資料室に展示されている。だが、それらは充電機能、あるいは霊感に富む瞬間を提供したものであり、完結への衝動ではない。
「タイム・クレバス」展は過去のさまざまな動向の相互関連を明らかにする展示品を寄せ集めることよりも、いま目の前を流れている時間、つまり現在を扱おうとしている。